11/08/2016

ありがとう、ホープ









ホープがこの世からいなくなって、3週間が経った。
いつも通りの散歩の時が一番慣れない。
他のことがすべて同じなのに、一つの存在だけが抜け落ちている。

ホープの姿が空間に押し型のように浮かび上がって見える気がする。
真っ先にオシッコをしていた白樫の根元、
私の気配を察して顔を出すデッキの角、
ごはんどきにそそくさとスタンバイしていたランニングマシーンの横。
アニューが来た日。
みんなで偵察

まだそこにいるかのようだ。



自分の経験から分かったことがある。

昔と違って手軽に動画を撮れるようになったが、意外と「特別なとき」の動画になりがちなのだ(写真もおなじく)。

お出かけ先、ということではなく、日常生活の中でもそうだ。
いつになくはしゃいでいるときの動画、寝姿がとてもブサイクだったときの動画、とっておきのオヤツを食べているときの動画、など。
珍しく母が撮ってくれた
いつも私にくっついているのがホープ
でも、いなくなったときに一番見たいのは、なんでもない、毎日繰り返されていた姿、なのだ。

ごはんになって早足で集合するときの姿とか。
勝手口からどやどやと外へ出て行くときの姿とか。

何度も何度も繰り返し目にして、日常生活の一部で、わざわざ撮ろうとも思わない、そんな姿こそ、もう一度見たい。もう一度だけでいいから見たい。
いちばんお気に入りの一枚
全員が揃ってる

だからぜひ、『息をするように当たり前になっているひとコマ』を、ときおり記録しておいてください。
私は残していなかったから。





一方で、残される私達をどれほど救ってくれたか分からない。
ホープの最期はまさに奇跡のようだった。
今から考えても、なぜあのとき点滴が通らなくなったか理解できない。

あまり具合が良くなかったから、四万十までは1時間ごとに様子を見ながら、一晩かけてゆっくりゆっくり帰るつもりではいた。

それでも、もし点滴が普通に通っていたら、私はそのまま愚弟と別れて出発し、どこかのサービスエリアで変わり果てたホープを見つけただろう。
悔やんでも悔やみきれないはずだった。



ところが実際には、私と愚弟が揃ってホープを看取ることができた。
これ以上望めないタイミングで最善の処置を施してもらって。
まったく苦しまず、苦労もかけず、一瞬で逝ってしまった。

安楽死のタイミングを見計らう必要すらなかった。
まるで、神様がそばについていて、神様の手で、人間が「安楽死」と呼ぶところの逝き方をさせてくれたような。
愛情が深いほど、大事に思うほど、どれだけ手を尽くしても、失ったあとには後悔ばかりが残るものだ。
してやれなかったことばかりが頭に浮かび、またしてやったことはしてやったことで、「よけいなことをしたのでは」と悔やむ。

それなのに、8歳と8ヶ月という若さだったにもかかわらず、ホープのことでは、なんの悔いもない。
前の日記で「より良い最期を迎えさせてやるのは、飼い主から犬へのお返し」と書いたが、結局、私達からお返しをするどころか、最後の最後までホープから贈り物をもらうことになったのである。





また、ホープはちゃんと、私達全員にお別れをしてくれた。



母には、10月10日の月曜日、添い寝をしてくれた。
夕方に後肢麻痺が出てうまく走れなくなった後、ホープは少々よたよたしながらも母の部屋に行き、ベッドのそばに置いてあるマッサージチェアを足がかりに、ベッドに上がった。

ソフィやウェルは、隙あらばベッドに上がろうとして何度も叱られていたが、ホープだけは一度も上がったことがなかったから私も母も目を丸くした。

母が横になると、母の脇腹に背中をぴったりくっつける格好で寝転び、しばらくそのままでいた。

その時は「後肢がおかしいので不安なんだろうね」と叱らなかったが、今から思えば、それはホープが自分の意志で母に添い寝ができる最後のチャンスだった。
2012年1月9日撮影 母と。

そのタイミングを逃せばもう叶わないことを分かっていたのかもしれない。



私には、同じ日の夜、大好きな肩掛けポーズをしてくれた。
ひざまづいた私の正面にオスワリをし、そのまま両前足を私の両肩にそっとのせる。
こんな感じ(愚弟はホープに迫りすぎ)

肩に前足をかけたまま、頭を私の腕にもたせかけ、だんだん体重を預けていき、私の膝の上でごろんと寝転がり、さらにヘソ天になるのがお決まり。
ホープとっておきの甘え方だ。
このまま腕に頭をぐーっと預けてくる

この日も同じ手順を踏もうとしたが、頭をもたせかける前に腰が定まらなくて横倒しに崩れてしまった。
それでもそのままヘソ天になって甘え、私は、もしかしたら今のが最後の肩掛けポーズになるかも知れないと心の奥底でちらりと思っていた。



愚弟は、10月17日、最後の日、夜7時半頃帰宅したときだ。
家に入るや、私の足に頭をもたせかけてぼんやりしているホープのところへ直行し、声をかけながら撫でていた。

と、ホープが愚弟の手を舐め始めたではないか。
私は後頭部から見ているので表情は分からなかったが、愚弟は、「目に力が戻って、俺の目をじっと見ながらなめてくれた!」ととても喜んでいた。
今年2月27日

ホープはグローネンには珍しく舐めるのが好きで、ゆっくりとした独特のなめかたをしたものだ。

反対側に垂れていた舌をわざわざ戻して、頭をもたげてしっかり舐めてくれたと感激する愚弟。
 「最後のお別れに舐めてくれたのかもしれん」
 「うん、きっとそうやと思う」
そんな会話をした。

そのお別れがほんの2時間半後とは思わなかったが。



こうして振り返ると、ホープは私達を心から愛してくれていたのだと改めて実感する。

いろんな物を壊された、と『ホープの不調』で書いたけれど、ホープが物を破壊する目的はただひとつ、私達のそばに来るためだけだった。





ホープの治療に関わって下さった3つの医療機関の先生方にも本当に恵まれた。

どの先生も、迅速で専門的でありながら、飼い主と犬に寄り添った親身な診察をして下さった。
そのおかげで、この短期間で、「ホープにとって」良いと思われることはすべてし尽くして、見送ってやることができたのだ。
いくら感謝してもし足りない。





ホープの病理診断は「骨肉腫」だった。

四肢にできる骨肉腫に比べ、ホープのように背骨にできるタイプの骨肉腫は少ないらしい。

オオサカ先生は数年に一度診るくらいだそうで、骨腫瘍の専門家の獣医師の友人の話では、大学病院でも少ないとのことだった。



組織検査の結果は、救急病院からオオサカ先生のところと我が家の両方にFAXして頂くことになっていた。
届いたFAXを見るときに自分自身が緊張のあまり卒倒するんではないかと心配だったが、そんなこと言ってちゃいけない、ホープのためにしっかり受け止めないと、とおのれを鼓舞していた。

結局、ホープを荼毘に付した晩に結果が届き、落ち着いて見ることができた。
それから骨肉腫について調べてみると、とにかく痛みとの闘いだとどこを見ても書いてあった。
10月16日夜7時半頃の笑顔
痛み止めは使っていない
まったく痛がることなくとてもご機嫌だった
この日も400g近く肉を食べた





振り返れば、すべての時間をホープに注いだ大阪での最後の4日間は、嵐のようで、なのに、穏やかで、一生忘れられない4日間だった。
飼い主として、こんな幸せはないだろう。

ただ、注文していた介護用品がたくさん届いたのだが・・・なにひとつ使わずに逝ってしまった。

いずれ年老いた他の犬たちに、ホープが残していってくれたのだと思い、しまっておくことにしよう。





ホープは、大好きだったガディのところへ急に思い立って行きたくなったのかもしれない。
自由闊達な末っ子気質を発揮して、先輩方を平気で追い抜かして天国へ向かってしまった。
きっと、いつかこちらから私達の誰かが天国に行くとき、得意げに先輩面して迎えにきてくれるのだろう。
跳ねるようなあのステップで。















追記:
母の手首はやはり骨折していた。
でも私作の簡易ギプスが役に立ったのか分からないが、骨折直後の1週間酷使したにもかかわらず、2週間で(本物の)ギプスは外れ、1ヶ月後には通院終了となった。
ご心配下さった皆さま、ありがとうございます。
これが簡易ギプスだ!
(炭酸水製造器のガスボンベの箱)

11/04/2016

ホープ、発つ





月曜日は明け方から小雨が降っており、静かな気持ちのいい朝だった。

ホープも朝から良いウンコをした。

愚弟は午前中は学校があるので出かけ、昼休みに一度帰宅して、私達の出発を手伝ってくれることになった。





ところが、どうも前日までとホープの様子が違う。
10月17日 朝

まず、水を飲みたがらない。
舌の下に水を入れると、一応飲むそぶりは見せるが、半分くらいこぼしてしまう。

ごはんも、鶏肉を80gは食べたが、そこでぴたりと食べるのをやめた。
口に入れてやっても、飲み込みもせず含んだままだ。

少し呼吸が速い。
舌や歯茎の色が、周期的に悪くなる。薄ピンクではなく、肌色に近い。
口の粘膜面が冷たい。
足の脈も弱く、血圧がやや下がっているようだ。



しばらく様子を見ていたが、落ち着く様子がないので、11時過ぎになって、オオサカ先生に往診を頼めないか電話した。
午前診が終わり次第来てくださるという。





1時頃、看護師さん二人を連れて先生が来てくれた時、ちょうど愚弟も帰ってきた。

周期的に粘膜の色が悪くなるのは、痛みによるものかもしれないということで、腫瘍の先生にもらってあったフェンタニールパッチ(麻薬系鎮痛薬)を貼ることに。

点滴も始めた。



先生は30分ほどで帰られたが、採血をしてくださったので、午後診の時に結果を聞きに行った。

救急病院での血液検査で、血小板が激減していたのが心配だったが、それは正常値に戻っている。

代わりに、貧血が急速に進行していた。
しかも、10月1日と違い、赤芽細胞がみられない。体が貧血に対抗できていないのだ。
病態的に効果は期待できないかもしれないが、他にできることがないからと、エリスロポエチン(赤血球を増やす薬)の注射をすることにした。

新しいタイプのエリスロポエチンで、以前は週に3回打たねばならなかったのが、週に1回ですむという。
それならホープの負担も少ない。何もしないよりマシだ。





4時過ぎに、愚弟は午後の授業に出かけていった。

舌の色の悪化はマシになったようだが、息はやはり速い。
時々我に返ったように私をじっと見たりするが、全体になんとなくぼんやりしている。
そろそろパッチが効いてくるはずの頃だった。
効果が出て、また昨日までのようにごはんも食べ、水も喉を鳴らして美味しそうに飲んでくれるようになれば・・・。



だが、このまま食べない、飲まないままだったら?
どこを見ているか分からない、ぼんやりした状態のままだったら?

もしそうだったら、眠らせてやろう、と決心した。
それは、ホープにとって生きる喜びがある状態ではない。
6月2日

美味しい、嬉しい、大好き、そういった気持ちがない状態で、体も動かず、食べも飲みもせずにただ横たわって息をしているだけなら、ホープはそれを続けたいとは思わないだろう。
安楽死を含め、命に関わる問題に答えを出すのは難しい。
自然に眠るような大往生を願うけれど、なかなかそうもいかない。

ならば、必ず来る別れの時を苦痛のないものにすることは、飼い主の大事な責任だ。
どうしてやるのが本当に「犬の」ためなのか、自分の辛さは横へ置いて、考え、決めてやらねばならない。

犬と暮らして、たくさんの素晴らしい贈り物を犬から貰ってきた。
それは、飼い主から犬への最後のお返しなのだと思う。





気づくと、時々フラがホープを見守るようにそばに来ていることがあった。
初めてのことだった。
「ホープが調子悪い。フラも見守ってくれている」
と母に写メールを送った。





寝たきりになってから、体の向きを変えたいときは前足をばたつかせていたのだが、夕方頃からそれが少し激しくなった。
おかげで私の腕は爪と肉球(数日前まで走り回っていたのでザラザラで固い)が当たって擦過傷だらけになった。
(いつまでも治らずに痕が残ればいいと思った)

が、頭を私の腿にのせてやると、落ち着いている。
首をもたげる格好になるから腫瘍のところが痛いと思うのだが、そうしていると不思議に、いつまでも穏やかに目を開けたり閉じたりしていた。





7時半頃になって、愚弟が最後の授業をすっぽかして帰ってきた。

相変わらず呼吸が速いので、パッチが効いていないのだろうかと、効かなかった場合に備えてもらってあったホリゾンを皮下注射した。
これで1〜2時間様子を見て、四万十へ向けて出発するつもりだった。



お腹が空いていたが、ホープにつきっきりで買い出しにも行けなかったため、食材が底をついていた。
私はホープの頭を抱いたままなので、愚弟がお餅を焼いてきてくれる。

ホープの枕元でお餅を食べていたら、フラもやってきて車座に加わった。
これも初めてのことだった。





9時半頃、昼からの点滴が1本終わるタイミングで出発することにした。
荷物を積み込み、フラも載せ、最後にホープを愚弟がそっと抱いて車に運んでくれた。
来た時と同じようにクッションに寝かせる。
よく晴れた夜で、月が煌々と輝いている。

大阪に残る愚弟に、「もしかしたら、これがホープに会える最後かもしれない」と言ったら愚弟も頷いた。
大阪に連れてきて最期を看取るつもりではいるが、思うようにいくとは限らない。
キャラバンの後部座席に横たわったホープの前にしゃがみこんで、愚弟は別れを惜しんでいた。
ここにこうしてホープはいるのに、もう二度とこの道路をホープが歩くことはない、玄関脇の植え込みで片足を上げてオシッコをすることはない、この門を出て裏庭公園に散歩に行くことはない。
そんなことをぐるぐると考えながら、車内で次の点滴ボトルに差し替えた。



ところが。
点滴が落ちないのだ。
ほんの30秒前までなんの問題もなく落ちていた点滴が、ぴたりと止まった。
もらっていたヘパリン生食(点滴が詰まらないようにする薬入りの水)で通そうとしても、びくともしないのだ。

留置針(点滴用に血管に留置した柔らかな針)は、中で血が固まって詰まってしまうことがある。
実際、金曜日も、ビスフォスフォネートを点滴しようとしたら詰まっていて、それから4時間ほど経ってからヘパリン生食をもらってきてうまく通せたのだ。

その時の留置針はもう抜去しており、今使っているのはお昼に入れてもらったばかりの新しい留置針だ。
時折、途中で曲がってしまって通らなくなることがあるので、それも確認したが、問題ない。
まったく不可解だった。
ドウイウコトナノ

もう、点滴を差し替えて四万十へ向かうばかりになっているのに。
フラもとっくに乗り込んでスタンバイしているのに。
 
このまま点滴無しで四万十へ向かうか(特に薬の入っていない、普通の補液なので)。

いや、心配だし、四万十ですぐに留置針を入れてもらえるわけじゃない。
第一、明日は私は外来があるから、夕方まで獣医さんに連れて行けない。

選択肢は一つしかなかった。
救急病院で留置針を見てもらうことにした。



行きがけに寄って直してもらい、そのまま四万十へ向かおうかとも思った。

だが、思いもよらないトラブルに心が折れ、愚弟に
 「一緒に乗ってきてくれる?」
と頼んだ。
愚弟は「もちろんやで」と二つ返事で乗り込んでくれた。





病院前に乗り付けると、まだガラガラだった。
金曜日と同じ承諾書やなんかを一から書かされた。

 「では、ワンちゃんを連れてきてください」
言われてホープを連れに行く。
愚弟が横抱きにして待合室に入る。

ドアを開けて先導しながらホープを見ると、首をもたげてしっかりした目つきで、ニコニコと機嫌良くこちらを見ているホープと目が合った。

良かった、点滴のおかげか元気が出てきた。これなら四万十まで大丈夫そうだ。



待合室で座る間もなく、男の先生が呼び込んでくれた。
10年越しだが見覚えがあった。
ソフィを診て下さった先生だ。



処置室に連れて入り、処置台の上にホープを寝かせる。

先生と経過について、ほんの1分ほどやりとりをした時。
 「あ、痙攣してるか」
先生が言った。
私からは、ホープの頭は愚弟の体の影に隠れて見えず、愚弟はホープの前に立って先生の方を見ていた。

驚いてホープの方を向くと、さっきまでニコニコしていたホープが目を閉じ、口を引き、体を硬直させていた。
 「呼吸してるか!」
 「脈は!」
すぐ横の別の処置台に移される。
心臓は打っているが、息が止まっていた。

 「状態が非常に厳しい子だけれど、今息が止まっている。挿管しますか、どうしますか」

迷ったが、さっきまでしっかり頭をもたげて目も合ったのだ。
一時的な呼吸停止で、戻ってくるかもしれない。

迷ったのはほんの数秒だったが、先生の声が大きくなる。
 「どうしますか!」
 「お願いします!」



挿管している間に、最新の血液データを持ってくるよう言われた。
車に取りに戻る。

全速力で処置室に戻ると、ほんの1分ほどの間に既に挿管され、蘇生処置を施されていた。
心電図はしっかり規則正しく波形を描いている。

先生が枕元に手招きした。
 「挿管して、今心臓はしっかり打っています。しかし」

目を見ると、瞳孔は完全に開いていた。
唇をめくって見せてくれた歯茎の色は、その日、悪い悪いといっていたようなものではなく、紙のようだった。
思わず頭を撫でると、41℃の熱があったおでこは、温かいというより熱かったが、すでにホープの魂がそこにないことは明らかだった。
先生がホープの向こう側で、簡潔に、でも言葉を選びつつ、急変した原因の推測と、さらに蘇生処置を続けるかどうかについての話をしている。
先生の思いやりが有り難かったが、大切なことははっきり分かっていた。
 「もういいです、苦しむこともなく逝けて、この子は幸せです」

ホープは心臓は健康だし、強い。強心剤を打ってくれたのなら、しばらくは鼓動は続くだろう。体に、血液を送り続けるだろう。
もういいのだ、と思った。

規則正しく流れる心電図を見ながら、「管を抜いてやってください」と答えた。



ホープとの今生の別れの時、悲しい気持ちよりも、見事な最期だったホープを誇らしく思う気持ちがわずかに大きかったことに自分でも少し驚いたし、嬉しくもあった。

午後10時2分、先生が時間を告げてくれた。
挿管チューブを抜くとまもなく、ホープの心臓は止まった。



しばらくして処置室で再会したホープは、乱れていた毛並みをきれいに整えてもらっており、体にかけられたまっさらの黄色のバスタオルの端から、供えて下さった小花のブーケが覗いていた。
(あとで分かったが、小さなフードの包みも添えて下さっていた)
先生自らカートを押して車まで運んで下さる。気づくと、金曜日に診て下さった女医さんも一緒だった。

 「こないだこの子を診て下さった先生と、この子のお婆ちゃん犬を診て下さった先生に見送って頂けて、全然苦しまずに逝けて、本当に幸せな子です、ありがとうございました」

そう挨拶して病院を後にした。





一度家に帰る。
頭を整理する時間が必要だと思ったのもあるけど、とにかく一度家に帰りたかった。

家への帰り道で愚弟が、一緒に四万十に帰ると言いだした。
明日の授業は奇跡的に抜けても大丈夫なものばかりだという。

法科大学院生の愚弟、実は今回のホープの帰阪まで、春から無遅刻無欠席だったのだそうだ(後から聞いた)。
それをこともなげに金曜朝の一コマを休んで病院に付き添ってくれたのだ。

今また、ホープの見送りのためだけに丸一日講義を休んで四万十まで来てくれると言う。
(私の運転が心配だったのもあるだろう)





10分足らずで帰り着き、さっき閉めたばかりの鍵を開け、フラを下ろし、ホープもクッションごと部屋に運び入れる。
ほんの30分前にここで呼吸をし、私達を見ていた。
7月31日

愚弟が母に電話で報告する。

その後、愚弟が荷物をまとめる間に、ジャパンペットセレモニーに電話をかける。
翌日夕方の約束が取れた。





30分ほど休んで、また全員を乗せて帰高の途についた。

前半は私、後半は愚弟の運転で、明け方5時半頃に四万十に帰り着いた。
母も起きて待っていた。

4日前に出かけるときは、抱き上げた私の顔をペロペロなめていたホープ。
少しは元気になって帰ってくると思って待っていた母。
2月11日 母の部屋に入りたくて待っている
(左がホ、右はウ)

犬たちの反応はそれぞれで、ブラウニーは一生懸命嗅いでいた。
(木曜日朝から急にホープの匂いを嗅ぐようになっていた。何か感じていたのだろうか。)

ウェルも、ホープの匂いを嗅いだ。

ソフィは、決してホープを見なかった。絶対にそちらを向かない。
ホープのそばに座って、ひたすら私ばかりを見つめていた。
(左ウェル 右ソフィ)

ルースは・・・ホープを嗅いでいるうちに、体を踏んづけた。
こんな時でもルースはルースだった

猫たちは皆、足先の匂いをそっと嗅いですぐ遠巻きにした。

お気に入りだった母の部屋のお気に入りの場所に寝かせ、1時間ほどの睡眠を取った。
10月18日 朝
いつもここでこうやって寝ていた





翌日の仕事は、夕方早めに早退した。
いつものジャパンペットセレモニーのおじさんが約束の時間にやってきて、ホープが駆け回った「パーク」で荼毘に付してくれた。

火葬車まで連れて行く前に、愚弟がホープを抱いて、デッキ内で家の周囲をひとまわり、折り返して庭をひとまわりする。
2歳で四万十に来たから、ホープは犬生の大部分をここを駆け回って過ごした。

途中でアニューにも別れをする。
大きくてまだ熱い骨壺を抱えて車を見送り、ゲートを閉めたら、ぽつり、ぽつり、雨粒が。
ぱらぱら降っただけの雨粒を受けながら家に入った。

超のつく甘えん坊で、誰かを撫でていると絶対に間に割り込んできたホープの骨壺は、皆で囲む食卓のすぐ後ろに据えた。




夕方、愚弟は夜行バスで大阪へ戻っていった。

そうして、日常のすべてが再開された。
ホープがいないことを除いてすべてがいつもどおりになった。
8月9日
10月18日
いつもそばにいたのに、勝手が違うんだ
困るんだよね