9/27/2009

幸せな食卓


先日の記事で、かれこれ10年近く映画館に行ったことがなかったと書いたが、実はミーシャに引き続き、またまた映画館に行ってしまった。

今回は、週に2本は観るという映画通Yuさんと、ルフュママさんとである。

ミーシャも、忘れることのできない映画となったが、今度のはもう、私の好みど真ん中であった。

    未来の食卓


原題は、"Nos enfants nous accuseront"(子供達は私達を告発するだろう)。
たいがい原題の方がいいものだが、この邦題はなかなかだ。オリジナルを凌ぐのではないか。



フランスはバルジャック村の村長と、13人の村議会が、村人の意向を問うことなく決定した事項、それは、

『学校給食と高齢者の宅配給食をオーガニックにする』


ユニセフの国際会議で、各界の専門家が、環境汚染とそれによる子供達の健康被害について、次々と、具体的なデータをあげながら発表する模様を織り交ぜながら、映画は村の美しい自然と、そこで生き生きと暮らす子供達、その家族の日々を映し出す。

だが、その一見美しい自然も、化学薬品に汚染され、幼くしてガンを発症する子供が異常に多いことも、映画が進むにつれ示される。


始まりは、オーガニック食だが、そこから、環境全般に対する人々の意識が、他人からの強制でではなく、内側からゆっくりと変わっていく様を、私たちは見ることができた。

特に「知らなかった!」「目から鱗が落ちた!」という内容は多くないのに、何度も観たいし、できるだけ多くの人に観てほしいと思う映画だった。


人が生きるために、本当に大事なものは何か。
ひずみのない、よりよい人生とは何か。
あらゆるところで問われている、この普遍的な問いに対する答えを探しに行くドアのひとつとなろう。






さて食べ物と言えば、我が家は安全面について、昔から厳しい方であった。

例えば、私が物心ついた頃から、外食でついてくる、色鮮やかなショッキングピンクのサクランボは食べることが禁じられていた。
そもそも外食自体少なかったが。

ごくたまに、着色サクランボや、カップヌードルなどを許されることがあり、それらは我ら子供にとってはめったにないご馳走となった。


大学生になって、友人と食材の買い出しに行ったとき、私が時間をかけて野菜を選んでいたら驚かれた。
友人達は、産地も鮮度も確かめずに、ぽいぽいカゴに放り込むので、逆に私も驚いた。




だから最近、土曜のお昼時のマクドナルドが、小さな子供達で溢れかえっているのを見ると、他人事ながら心配になる。

親はいい。自分で選んで食べているのだから。
でも、子供は自分で決められるわけではない。
子供達の体を作る、大切な食べ物を決めているのだということを、一食一食に責任があるのだということを、この親たちは考えているのだろうか?

いろいろな考え方があるだろうが、少なくとも私の価値基準に照らせば、彼らは間違っている。




外食産業は極端な例だが、それ以外にも考えるべきことはいくらでもある。

野菜がオーガニックであることは、比較的意識しやすい。有機農法も少しずつだが広がっており、オーガニック食材を専門に扱う店も増えつつある。



動物性タンパク質は野菜より、もう一歩踏み込んだ分野と言えるかもしれない。

魚は、海洋汚染が言われて久しいし、日本人には馴染みだから、養殖・天然の別や、どこの海で獲れたかは大部分の人が考えている事柄だろう。


鶏や、牛、豚、といった獣肉類はどうだろう。

野菜と違い、彼らは恐怖を感じるし、もちろん幸せも感じることができるはず。(*私の個人的な意見です)
その彼らを、私たちの食卓のために、意図的にこの世に生まれさせ、この世から去らせる。
これは、仕方のないことなのだろうか。
それとも、そのひとつひとつが罪なのか?
もし罪なら、我々人間は、膨大な罪を重ねてきて、これからも重ねていくことになる。

絶対的な答えというのはないと思う。
一人一人が、その人なりの答えを出すしかない。
仏教では罪と考えるのだろうし、同じ理由でベジタリアンになる人々もいる。


私の答えはこうだ。

本来は罪だが、家畜を育てなければ、人間という特殊な生き物をまかなえないから、やむを得ない。
でも、私たちの都合で命を生まれさせ、私たちの都合で命を奪っていることを肝に銘じ、その命に感謝しながら有り難く頂くことで、少しでも償えるのではないか。



去る時ばかりに焦点が当たりがちだが、彼らの命がこの世に「在る」間のことを考えたことがあるだろうか。

養鶏では、バタリー飼育が一般的である。
最小限のスペースで、効率的に「鶏肉」を産生する方法。
だが、彼らは「肉」ではない。
我々のために死んで、「肉」となるのだ。

身動きできないケージにぎゅう詰めで入り、人間に食べさせる肉を肥大させるためにのみ餌を与えられる鶏たちを目の前にして、「肉が順調に育っている」という感覚しかないなら、それは人間のおごりだ。

人間に食べられるために生まれたとしても、人間の都合で死ぬ時期を決められるとしても、生きている間は、それは命だ。我々の命と同じだ。
命そのものは、人間ごときに手出しできるものではない。

毎日毎日「消費」される膨大な量の鶏肉を得るために、効率を優先するあまり、命への感謝を忘れ去ってしまえば、必ずしっぺ返しがくるだろう。


命は巡る。
ならば、幸せな命は、幸せな命をいただいてこそ得られるのではないか。



我が家で言えば、以前から、鶏肉に関してはバタリー飼育ではない、平飼いの鶏であるところから購入している。健康だから、抗生剤も使っていない。
ヒトも、犬も、この鶏肉をいただいている。もちろん卵もだ。



ところが、この冬、ウサギ肉を購入したときは、ドイツの獣医師であるKyokoさんに言われるまで、それがバタリー飼育されたウサギだと気づかなかった。

気づかなかったと言うより、思いもよらなかった。

ウサギ肉自体が初めての私、まぬけなことに、一羽一羽捕まえたと漠然と思っていた(ちゃんと考えたらそんなはずはない)。
正直、最初犬にやるとき、猟で使った弾による、鉛汚染はないのだろうかと気になって、体の傷を調べたくらいだ。

ウサギも、いわゆる養殖が行われているんだというのは、気づいたときはショックだったが、知ってみればなにも不思議はない。

さっそく、購入した羊肉のなみかたさんに問い合わせてみたら、すぐに丁寧な返事が来た。
やはりバタリー飼育とのこと、飼育場の写真が掲載されたサイトも添付してくれた。
(その、URLを添付してくれたなみかたさんからの
 メールが行方不明。ああ。)

なお、バタリー飼育を含め、食用家畜の現状については、Kyokoさんのページをぜひ。

そのときは、バタリー飼育はやめるべき方法だが、理想ばかり言うわけにもいかないと思った。
バタリー飼育をやめてしまえば、需要と供給のバランスは取れなくなるだろうと。
きれい事ばかり言うわけにもいかない、と半分諦めていた。




でも、未来の食卓を観た今は、そんなことはないと言える。
バルジャック村の、普通の主婦が友人に言っていた。
「昔に比べて、余計なものを買わなくなった。冷蔵庫は、前は食べ物であふれていたけど、今はガラガラ。
でもかまわない。大切なのは温かい食事よ」

幸せな食卓のためには、効率最優先で頑張らねば追いつかないほど、ウサギを食べまくる必要は全然ないのだ。




平飼い鶏のところで、「健康だから、抗生剤も要らない」と書いたが、これは植物にも当てはまる。

映画の中で慣行農家が、有機農家に、病気対策をどうしているのか問うシーンがあった。
ここでは、園芸を趣味とする者にとっては非常に納得のいく話が出た。
つまり、有機農法では、土に力があるから、植物はあまり病気にならないのだ。

普通の園芸でもそうだ。
私は、化学肥料を使わない。土がやせるからだ。
有機肥料は、化学肥料に比べて速効性では劣るが、年々土は肥えてくる。そんな土で育つ植物は強い。
我が家の植物は病気にはほとんど
かからない。バラでさえもだ。



害虫は?

我が家では、春先、新芽が出る頃から、木酢液、ニームエキス、月桃エキスなどを定期的に噴霧している。これだけでも、害虫の数は飛躍的に減る。

それに、例えばもしアリマキがたかってしまっても、慌てることはない。しばらく待てば、わんさとテントウムシが増え、瞬く間にアリマキは全滅する。
テントウムシが来るタイミングは年々早くなる。彼らも学習するのだ。





先日、恒例の本村先生の犬の手作り食セミナーに参加した際、最近の野菜は、10年前に比べて、栄養分が極端に減っているという話を、聞いた。
例えば、この40年間で大根のビタミンCとカルシウムは1/8に減っている。

そしてその原因は土だそうだ。化学肥料や農薬などで次第に痩せた土には、ミネラルも有効微生物もほとんど存在しない。
そんな土で育った植物に、豊かな栄養分は期待できるはずもない。

映画の中でも、有機農家が言っていた。
「私たちは栄養を植物ではなく、土に与えるんだ」


また、これも本村先生のセミナーで聞けた話。
虫食いの野菜は、農薬を使っていないから良い野菜、と思われがちだが、そうではない。
有機農法で育てられ、力のある野菜には害虫はそれほど来ない。

本当にそうだ!
これは、私自身、園芸をする際には常に考えていることなのに、何故か野菜を見るときには頭になかった事だった。

バラでも何でも、肥えた土でしっかり強く育てていれば、あまり害虫も来ない。だから、私は虫を遠ざけるために、虫対策ではなく植物の体力アップ対策を図る。

いつもやってることなのに、何で思い至らなかったんだろう?





この時のセミナーは、普段の栄養学と違って『食の安全性』に関する話だった。
そこで紹介された本を、ご紹介してこの長い文を終えよう。

 「食卓の向こう側」(西日本新聞社)


レストランで出されるゆでたまごと、家で作るゆで卵が同じではないと、考えたことがあるだろうか。
家で作ったゆで卵を、スライスしてサラダにのせるとしよう。
大きくきれいに黄身がはいった部分もあれば、端の方で、白身ばかりの部分もある。
レストランで、白身ばかりのスライスがあたった客は、満足するだろうか?

そういうわけで、黄身と白身を分け、再形成し、ゆで卵の金太郎飴を業者は作る。
どこを切っても、黄身と白身は同じように含まれる。
形成するための、よけいな添加物も含まれる。

実に、食生活について考え始めたらきりがないのである。

9/18/2009

一緒に歩こう

今日は、一年ぶりにパンクの憂き目に遭ったことをアップするつもりでしたが、またしても急遽変更。

いつもお邪魔しているあがさんが書かれていた記事に触発されました。


あがさんは、アメリカはロサンゼルスで、ドッグシェルターからお迎えしたニコちゃんとニヤちゃん(ふたりあわせてSMILES)というキュートな姉妹と、素敵なオット様と、毎日を大切に、かつ楽しく過ごしておられます。

          ニコちゃんです

          ニヤちゃんです

毎日更新されてるブログは、内容がちっとも薄くならず、私にとってのBest of Cool Siteのひとつです。
そして、私にとある尊敬するリーダー(近々書きます。いやマジで!)を教えて下さった方でもあります。

そのあがさんのブログ『SMILES@LA』のこの日の記事を、まずご一読下さいませ。

           読んだ?





このお話を読んだら、書かずにはいられない。

実は私は何年か前、毎日毎日ネガティブな気持ちに満ちて過ごしていた時期があった。


ガディが10歳を過ぎてから、来年の今頃は一緒にいられるのだろうかと、そんなことばかり。
ガディが確実に年を取っていくことが悲しくて悲しくて、怖くて、特に夜に散歩に行った時などは、誰もいないのをいいことに、ずっと泣きながら歩くこともよくあった。

しかし、ある時からそんな気持ちががらりと変わったのである。




それは、ある晩の散歩の時。
いつもの公園で、いつもの溝を勢いよく跳び越えたはずのガディが転び、一声「キャン!」と鳴いたのである。

溝の50cmほど手前に、溝とほとんど同じ角度、同じ幅で、街灯に照らされた木の陰が長く伸びており、それを溝と勘違いしたガディは張り切って助走して勢いよく跳び越え・・・たつもりが、本物の溝がそのちょっと先にあったので、後足が落ちてしまったのだ。

これがその溝 ↓
        昼ナラ余裕ヨ ホイ!

ただでさえ悲観的な気持ちに満ちて歩いていた私はもう胸が張り裂けそうになり、駆け寄ってガディを抱きしめ、おいおい声をあげて泣いてしまった。


ところが。

泣きながらふとガディを見ると、爺さん、ワシは早く向こうの茂みをチェックしに行きたい んじゃと、抱きついてる私のことがえらく迷惑そうではないか。
はるか向こうをキリリと見据えて、眼はキラキラ、体 は前傾で、やる気満々である。


跳び越え損ねたことなど何ら意に介さず、 気持ちは一直線に前を向いているのだ。


その横顔を見ているうち、突然背中から重しがふっと落ちたような気がした。
急に心が軽くなり、前向きになったのである。


ガディは、自分が年を取っただの病気がどうだの、何も気にしていない。
今しているこの散歩を、心から楽しんでいる。

私はどうだ?
意味もなくめそめそして暗い気持ちで、ガディにマイナスのエネルギーを及ぼしているんじゃないか?
(当時はまだシーザー・ミラン氏のエネルギー理論は知らなかったが、エネルギーという考えは昔から持っていた)
これでは、ガディは病気でなくても私のせいで病気になってしまう。
何をやってんだ、私。















私は立ち上がって膝を払い、涙を拭いた。
そして、自然に右手で握り拳をつくった。
小走りに先へ行くガディのお尻を見ながら、心で話しかけた。
「神様から与えられた命いっぱい、元気で生きろ、ガ
 ディ。
 私がそれをしっかり見守ってやる。何も心配せんで
 いい。あんたを神様の元へ無事見送るまでは、私は
 絶対に死なん。
 あんたのペースで年を取っていこう。私がずっと並ん
 で歩くから。
 毎日幸せだね、私たち。」

母親の気持ちではなく、父親の、親分の(?)気持ちだったのを覚えている。
だだっぴろい公園を独りでとことこ走るガディの上に、でっかい私が傘のように覆い被さってるようなイメージが浮かんでいた。



以来、一時期のような悲観的な気持ちはまったく私の心には浮かばない。
ガディの犬生の、どの一瞬ともしっかり向き合う覚悟はできた。つもりである。たぶん。





あと4ヶ月で、ガディは15歳。
昔は、カウントダウンばかりしていた。

今は違う。
「何歳まで生きた」とかいうのは後になってみれば手元に残る結果であって、目標ではない。少なくとも私と私の犬たちにとっては。


我らの目標は、
 『毎日を最高に幸せに生きる』
これである。






シーザーさんの「今を生きる」という考え方を知ったとき、この時自分がもがきつつたどり着いた思いと図らずも同じであったことは、少なからず自信になった。

9/16/2009

映画館へ

今日は違う記事を書くつもりで、ほとんどできていたのだけれど、急遽違う話を。






以前、友達とランチをしたとき、Yuさんに教えてもらった&お勧めしてもらった映画。

 ミーシャ ホロコーストと白い狼


実は、最後に映画館で映画を観たのはもう10年近く前。
エンド・オブ・デイズでした。

基本的にこういう、後に残らない映画が好き。精神的に疲れるのが、年々嫌になり、最近観る映画はコメディ、SF、アクションものに偏っています。

でも本来は重い話は好きで、初めて自分の意志で選んで映画館に行った映画は『ガンジー』。
中2の時に、父と行きました。
前から2列目で3時間8分は辛かったです。

          首ガ痛カッタノ


重いのがダメになったのは、仕事を始めてから。
仕事のストレスだけで、精神の容量がいっぱいになってしまい、悲しみや争いに耐えられなくなってしまいました。けっこうショボい人間です。





話が逸れましたが、Yuさんがこの映画を薦めて下さったのには、よい映画であるというのはもちろんですが、もうひとつ、本筋からは少し外れますが理由があるのです。

映画の中身に関することはわずかも知りたくない、という方はここから下はご覧になりませぬように。
別に、結末に関わる話などではありませんが。



要所で犬が登場するのですが、なんと、その中にグローネンダールがいるのです。
知って観たのに、思わず「あっ」と声をあげそうになりましたよ。
ベルギーの話なので、本場といえば本場ですが。
そして、その犬とペアで登場するのが、ホワイト・シェパード。
もちろん、狼も重要な役どころ。
これだけでも、もう観るしかないでしょう。



話は、副題通りホロコースト絡みの話です。
今までのホロコースト映画と、また少し違う視点から語られており、観終わった後、ずしりと心に残る映画でした。館内が明るくなっても、しばらく座席で動けませんでした。



今回は、ハルちゃん、2回目の鑑賞になるYuさん、ルフュママさん(五十音順)と一緒に、また京都まで。
だんだん「果てしなく遠い」京都ではなくなってきましたぞ。





映画の後、AUX BACCHANALESというフレンチカフェレストランでお昼を摂ることにしていましたが、しばらくは全員現実に戻れず、あんまりお昼ごはんという感じではないね・・・などと言いつつテーブルにつきました。
案内してくれたボーイさん、涙目の4人にちょっと驚いていたかもしれません。

いつもと違って、なかなかメニューも決められません。
心ここにあらずでしたから。



でも、出てきた食事のおいしいこと。
4人で交わす話のおもしろいこと。

ゆっくりゆっくり、現実に戻ってきた私達は、結局3時間ほども話し込んでしまったのでした。







さて、ミーシャ。

ハルちゃんが調べてくれたところでは、今月25日までの上映だそうです。
京都シネマで、上映時間は10時からの一回だけ。
もう10日ほどしか残っていませんが、お勧めです。
京都シネマは、こぢんまりしていて、落ち着いてかつ洒落た感じのいい映画館でした。駅から直結だし。


グローネンダールと暮らしている人間から見ると、映画でのグローネンは、
 「あ、やっぱり」
というところがあり、そういう点でも面白かったです。
私にとっては、外見がルースで、


性格がガディという感じでした。






前回に引き続き(間が2ヶ月ちょっとも空いていて、全然続いていないのですが)、お勧め話でした。

なぜいつもぎりぎりなんでしょうね、しかし。