ホープがこの世からいなくなって、3週間が経った。

他のことがすべて同じなのに、一つの存在だけが抜け落ちている。
ホープの姿が空間に押し型のように浮かび上がって見える気がする。
真っ先にオシッコをしていた白樫の根元、
私の気配を察して顔を出すデッキの角、
ごはんどきにそそくさとスタンバイしていたランニングマシーンの横。

まだそこにいるかのようだ。

自分の経験から分かったことがある。
昔と違って手軽に動画を撮れるようになったが、意外と「特別なとき」の動画になりがちなのだ(写真もおなじく)。
お出かけ先、ということではなく、日常生活の中でもそうだ。
いつになくはしゃいでいるときの動画、寝姿がとてもブサイクだったときの動画、とっておきのオヤツを食べているときの動画、など。

珍しく母が撮ってくれた
いつも私にくっついているのがホープ


ごはんになって早足で集合するときの姿とか。
勝手口からどやどやと外へ出て行くときの姿とか。
何度も何度も繰り返し目にして、日常生活の一部で、わざわざ撮ろうとも思わない、そんな姿こそ、もう一度見たい。もう一度だけでいいから見たい。

だからぜひ、『息をするように当たり前になっているひとコマ』を、ときおり記録しておいてください。
私は残していなかったから。

一方で、残される私達をどれほど救ってくれたか分からない。

今から考えても、なぜあのとき点滴が通らなくなったか理解できない。
あまり具合が良くなかったから、四万十までは1時間ごとに様子を見ながら、一晩かけてゆっくりゆっくり帰るつもりではいた。
それでも、もし点滴が普通に通っていたら、私はそのまま愚弟と別れて出発し、どこかのサービスエリアで変わり果てたホープを見つけただろう。
悔やんでも悔やみきれないはずだった。

ところが実際には、私と愚弟が揃ってホープを看取ることができた。
これ以上望めないタイミングで最善の処置を施してもらって。
まったく苦しまず、苦労もかけず、一瞬で逝ってしまった。
まったく苦しまず、苦労もかけず、一瞬で逝ってしまった。
安楽死のタイミングを見計らう必要すらなかった。
まるで、神様がそばについていて、神様の手で、人間が「安楽死」と呼ぶところの逝き方をさせてくれたような。

してやれなかったことばかりが頭に浮かび、またしてやったことはしてやったことで、「よけいなことをしたのでは」と悔やむ。
それなのに、8歳と8ヶ月という若さだったにもかかわらず、ホープのことでは、なんの悔いもない。


また、ホープはちゃんと、私達全員にお別れをしてくれた。

母には、10月10日の月曜日、添い寝をしてくれた。

ソフィやウェルは、隙あらばベッドに上がろうとして何度も叱られていたが、ホープだけは一度も上がったことがなかったから私も母も目を丸くした。
母が横になると、母の脇腹に背中をぴったりくっつける格好で寝転び、しばらくそのままでいた。
その時は「後肢がおかしいので不安なんだろうね」と叱らなかったが、今から思えば、それはホープが自分の意志で母に添い寝ができる最後のチャンスだった。

そのタイミングを逃せばもう叶わないことを分かっていたのかもしれない。

私には、同じ日の夜、大好きな肩掛けポーズをしてくれた。
ひざまづいた私の正面にオスワリをし、そのまま両前足を私の両肩にそっとのせる。

肩に前足をかけたまま、頭を私の腕にもたせかけ、だんだん体重を預けていき、私の膝の上でごろんと寝転がり、さらにヘソ天になるのがお決まり。
ホープとっておきの甘え方だ。

この日も同じ手順を踏もうとしたが、頭をもたせかける前に腰が定まらなくて横倒しに崩れてしまった。
それでもそのままヘソ天になって甘え、私は、もしかしたら今のが最後の肩掛けポーズになるかも知れないと心の奥底でちらりと思っていた。

愚弟は、10月17日、最後の日、夜7時半頃帰宅したときだ。
家に入るや、私の足に頭をもたせかけてぼんやりしているホープのところへ直行し、声をかけながら撫でていた。
と、ホープが愚弟の手を舐め始めたではないか。
私は後頭部から見ているので表情は分からなかったが、愚弟は、「目に力が戻って、俺の目をじっと見ながらなめてくれた!」ととても喜んでいた。

ホープはグローネンには珍しく舐めるのが好きで、ゆっくりとした独特のなめかたをしたものだ。
反対側に垂れていた舌をわざわざ戻して、頭をもたげてしっかり舐めてくれたと感激する愚弟。
「最後のお別れに舐めてくれたのかもしれん」
「うん、きっとそうやと思う」
そんな会話をした。
そのお別れがほんの2時間半後とは思わなかったが。

こうして振り返ると、ホープは私達を心から愛してくれていたのだと改めて実感する。
いろんな物を壊された、と『ホープの不調』で書いたけれど、ホープが物を破壊する目的はただひとつ、私達のそばに来るためだけだった。

ホープの治療に関わって下さった3つの医療機関の先生方にも本当に恵まれた。
どの先生も、迅速で専門的でありながら、飼い主と犬に寄り添った親身な診察をして下さった。

いくら感謝してもし足りない。

ホープの病理診断は「骨肉腫」だった。
四肢にできる骨肉腫に比べ、ホープのように背骨にできるタイプの骨肉腫は少ないらしい。
オオサカ先生は数年に一度診るくらいだそうで、骨腫瘍の専門家の獣医師の友人の話では、大学病院でも少ないとのことだった。

組織検査の結果は、救急病院からオオサカ先生のところと我が家の両方にFAXして頂くことになっていた。
届いたFAXを見るときに自分自身が緊張のあまり卒倒するんではないかと心配だったが、そんなこと言ってちゃいけない、ホープのためにしっかり受け止めないと、とおのれを鼓舞していた。
結局、ホープを荼毘に付した晩に結果が届き、落ち着いて見ることができた。
それから骨肉腫について調べてみると、とにかく痛みとの闘いだとどこを見ても書いてあった。

10月16日夜7時半頃の笑顔
痛み止めは使っていない
痛み止めは使っていない


振り返れば、すべての時間をホープに注いだ大阪での最後の4日間は、嵐のようで、なのに、穏やかで、一生忘れられない4日間だった。


ただ、注文していた介護用品がたくさん届いたのだが・・・なにひとつ使わずに逝ってしまった。
いずれ年老いた他の犬たちに、ホープが残していってくれたのだと思い、しまっておくことにしよう。

ホープは、大好きだったガディのところへ急に思い立って行きたくなったのかもしれない。
自由闊達な末っ子気質を発揮して、先輩方を平気で追い抜かして天国へ向かってしまった。

跳ねるようなあのステップで。
追記:
母の手首はやはり骨折していた。
でも私作の簡易ギプスが役に立ったのか分からないが、骨折直後の1週間酷使したにもかかわらず、2週間で(本物の)ギプスは外れ、1ヶ月後には通院終了となった。
ご心配下さった皆さま、ありがとうございます。
